無名異焼
竹のアート
Vol.3
伝統工芸に魅せられる島―佐渡。新たな作品に挑む 父子の姿がある。
父は「跡を継げ」とは言わなかった。息子も一度は 別の仕事を選んだ。
しかし今、同じ目をしている。
鋭くもあり、柔らかでもある。厳しくもあり、優しくもある。見つめる先にあるその作品は、決して、うそを つかない。指先が覚えた技術が、そのまま形になる。
だから、技術を磨く。向上心は枯れない。先人が たどった道を学び、新しい道も探る。 それが、この島で伝統を受け継ぎながら、新たな 作品を生み出し続けるプライドでもある。
赤い土から教わる確かな技術
伝統継承と新たなチャレンジ
相川にある北沢窯。父、其田和彦さん(62)の指が赤茶色に染まる。ろくろの土の塊は、みるみるカップの形になる。酸化鉄を多く含む赤い土 「無名異」は粒子が細かく、焼くと30%も収縮し、割れるリスクも高まる。
「割れれば、あんたが悪いと土に 教わる。土の作り方、乾燥の仕方、 窯のたき方の何かが悪かったと」。 そうして技術を身に付けた。
青森出身。サラリーマンをしていたが、結婚した相手が窯の娘だった。年に2回ほど、島で義父に会うと、「職人の気迫に圧倒された」。31歳のとき、陶芸の道に入った。
息子の弘輔さん(34)も島外で一度はサラリーマンになった。しかし、父の代で窯が閉じられるかもしれないと知り、島に戻った。「ここをつぶしたくなかったから」。24歳のときだった。 父は、うれしかった。しかし景気は悪い。「息子の代にバトンタッチできるような経営をしないといけない」と悩んだ。ビールなどにぴったりのフリーカップを作った。デザインも豊富で、人気の商品になった。「今の生活に合った新しいデザインを楽しみながら取り入れてみた」
息子は妻と一緒に新たな販売ルートを考えた。フレンチや焼き鳥店などの食器も扱うようになった。
父は言う。「昔はいい物を作ること しか考えていなかった。息子夫婦は どういう物をどういう人に使ってもらうかを考えている」
息子は言う。「材料や技法は変わっていない。道具も昔からのものを 受け継いでいる。でも、新しいことにチャレンジできる。父の考えが柔軟だから」
そして父子は、ろくろの前に並んで座る。
北沢窯
其田 和彦 さん
北沢窯
其田 弘輔さん
学ぼうとする力は最高の武器
強く、精細な曲線美を求めて
畑野にある本間工芸。父、本間秀昭さん(62)は4Bの鉛筆でノートに太い曲線を次々と記す。平面のデッサンでは分かりにくい立体の造形は発泡スチロールで作る。細かい曲げ方は アルミ線で試す。
材料の竹は島の真竹やメンヤダケのほか、四国などからも仕入れる。 湯で汚れや油分を除いた後、節の位置を見ながら切り、裂く。
それを大胆に、あるいは繊細に、 曲げ、重ね、組み合わせ、波のように、動物の体のように、美しい曲線の アートを創り出す。 27歳から始めて35年。まだまだ デザイン通りにはいかないという。「まだ技術が追いついていないから。でも、頑張れば、5年先ならできるかもしれない」
師匠は伯父で養父の本間一秋さんだった。2017年に亡くなり、それ以降、技術を生み出すのは探究心 だけ。「学ぼうとする力は最高の武器。自分が思ったものに少しでも近づけられると面白い」
そうした父の姿も考えも、長男の 浩一さん(29)は知らなかった。イラストレーターを目指して入った専門 学校で、芸術家について学び、「父や 祖父に対する見方が変わった。すごい仕事をしていると」。
一度はパソコンに向かう仕事に 就いた。しかし、辞めた。竹細工の訓練校で2年間学んだ。日用品ではなく、父と同じアートに挑んだ。 2年前に帰郷。父の仕事場に入った。竹の種類に応じた技術を父に尋ねることもある。そして、悩む。「父と 祖父の作品のイメージが強い。違うものを創らないといけない」
そんな息子を見て、父は思う。「目指すものを早く見つけてほしい。技術を自分のものにしてほしい」と。
そして父子は、黙々と竹を曲げる。